昭和の風林史 (昭和四七年六月二十二日掲載分) (2014.06.26)
急騰は利食え 低落は買い拾う
相場は厳粛、神聖である。
利のある玉は利食いする。
これは相場に対する礼儀といえよう。
「やまももや熊野へ嫁ぎし人のうへ 三山」
五、七十円幅で安場、安場を買い下がっていく。
千円ぐらい引かされてもかまわない―という気持ちで。
ここからなら必ず利食いになると思う。
なにかの弾みで、パパーンと五、六百丁高などあれば、
抜く手も見せずに利食いしてしまう。
居合い抜きの呼吸である。
ズンズン高い―ということは、
まずあり得ないが、
その時はコツコツ売り上がっていく。
強弱なしの無心の境がよい。
木綿針一本落ちた音にも
ハッと身構える冴えに冴えた境地。
それは無心であるからだ。
作付けも、天候も、値ごろも、
なにもかも忘れてしまう。
なかなかそうはいかないのであるが。
森閑とした閑な相場。
相場が閑になるのは、
次の材料(キッカケ)待ちのためである。
という事はひと通り織り込んで、
その準備に達した。だから次の情勢を待つ。
古人は閑散に売りなしと言った。
筆者は、しばらく相場を遠くに置いて見ようと思う。
離れるのではない。不離である。
続落よし。反騰よし。閑散低迷よし。
もとよりどうでもよいというのではない。
材料にとらわれす、高低に目をうばわれず、
水の流れに身をまかす。
こういう気持ちになったのも、
いささか強弱が鼻についてきたからだ。
売り厭いた―などといえば贅沢な―となる。
買い玉を引かされて、
うんうん、うなっている人もいるのに。
しかしそれは好んで引かされているのである。
いわばマゾヒズムの快楽である。
大きく引かされて呻吟(しんぎん)する。
あれは一種の相場の楽しみだと思う。
マゾ的ではあるが。
因果玉で呻吟している人たちは、
これはまだそのマゾ的快楽を続けなければならないであろう。
相場が大きく出直っていくなどと思ってはいけない。
筆者はこれから下がる相場を強気していこうというのである。
そんな相場の強弱があるか、
と読者は立腹するかもしれなが、
あっても、なくても、
あるのであるからいいではないか。
損の見えている相場である。
決して相場を甘く見るのではない。
相場は厳粛にして神聖である。
だからこそ無心。無我。
水の流れでよいのである。
●編集部注
上記の文章を読んで、
ブルース・リーの映画での台詞を想起する。
『考えるな、感じろ』
【昭和四七年六月二一日小豆十一月限大阪一万〇三八〇円・三四〇円高/東京一万〇四〇〇円・四四〇円高】