昭和の風林史 (昭和四六年八月二十六日掲載分) (2013.09.11)
殺気充満せり 空前の爆走態勢
先二本の七千円抜けは吹き抜け型であろう。
時は金なり、
買うなら一刻も早いほうがよい相場だ。
「ほそぼそと啼きはじめしはつゞれさせ 羽公」
どの限月も、その一代の新高値に駒を進めた。
飛車や香のように突き刺す行きかたではなく、
ひと目ひと目と駒が進んで歩が次々と成り金になる。
案外これが速い速度で、
売り方陣営の王さんに必死がかかった。
ここであとは大駒の角切り、
飛車捨て桂打ちのストップ高で、
しのぎきれずの売り方落城まさに投了となる。
将棋でも碁でも岡目八目、
案外、はたで見ている分には判り易く、
なぜ売り玉踏まんのか、
辛抱しても甲斐のない辛抱であることが判っていても、
売っている人にすれば血の出るような苦痛である。
それでは上に行くのが明々白々なのだから買えばよいのに、
それも出来ない。
この相場きますよ一発千丁高という場面が。
作況は、もはや決定的である。
いうなら半作(五分作)である。
五万一千六百ヘクタールに半作一・二俵で計算すれば
六十一万九千俵。
作付け五万三千六百の発表数字から
霜でやられた二千ヘクタールは
差し引いて考えるのが今や常識である。
先二本の七千円大台は、アッケラカンと素通り、
通り抜けである。
八千円指呼の間に迫る―という場面が遠くないと思う。
しかも、これからは、売り方が相場をつくっていくだろう。
だから怖いのだ。投げや踏みには理性も良識もない、
いわばドサクサである。
今さら、買えと言っても買えない人に、
買えと言うのも詮(せん)ないことで
買わない人は買わないが、
買う人は言われなくても買っていよう。
まあ、多くを言うこともない。
ただ、筆者などには一万七千円抜けが、
まざまざと見えているので、
今からでも遅くない―と書くのである。
角度85度の傾斜帯、天地四百円幅の綺麗なコース上に
相場は乗っている。
●編集部註
愛シテモ、アイシキレナイ。
驚イテモ、オドロキキレナイ。
歓ンデモ、ヨロコビキレナイ。
悲シンデモ、カナシミキレナイ。
板に直接書き込んだものを削るから「板画」。
「板画」という文字を、
「相場」という言葉に置き換えると、
老相場師の独白のような趣がないか。
分かっているのに、動けない。
動けばいいのに、動けない。
自信はあるのに釈然としない。
ならば相場なんてしなきゃいいのに、
それもできない。
「見切り千両」より上には「無欲万両」が来る。
これは井原西鶴の言葉といわれているが、
彼も当時の米相場に明るかった。
時あたかも、
後世まで語り継がれるニクソンシ ョック直後の市場である。
日常ではなく、非日常的な時間帯といえる。
自ずと相場も、いつもと違うものになる。
〝理性も良識もない〟という表現は、その全てを集約している。
上の文章、理路整然とロジックを積み重ねているが、
その発端は、相場中毒者としての感性から来ているのだろう。
日足だけを見れば、過去三カ月のレジスタンスラインを上放れたばかり。
〝一発千丁高〟などこの時点では大風呂敷に過ぎない。
経験に裏打ちされた感性が囁くのだろう
「ここは阿呆になって買え」と。
【昭和四六年八月二五日小豆一月限大阪一四〇円高/東京二三〇円高】