昭和の風林史(昭和五四年十一月七日掲載分)
売らず買わず 仕掛け妙味がない
小豆は軟弱。砂糖は天井したみたい。
輸大も逆ザヤだが一応行き着いたように思う。
「一本の紅葉且つ散る庵かな 迷子」
昨日の当欄見出し「香港」の港が、
一部地区には「香海(・)」になっている。
ミスプリントである。
常識でも判るようなミスプリントを
する校正責任者の目はフシ穴か。
いまだかつて〝風林火山〟の見出しに、
こんな馬鹿げたミスプリントを
するような校正マンは当社にいなかった。
気を引き締めて校正をしないから、
大きな活字の誤りさえ目に入らない。
情けないと思った。
さて、小豆相場であるが、
気が乗らないうちに安い。
安いなら、どこまで安いか?というと、
これから下は、あっても千丁。
まあそういうところで、
身構えて取り組む相場のようには思えない。
精糖の相場が、海外は強いのだが、
国内相場の雲行きがおかしい。
線は綺麗な売りになっているから、
陽動買いをしても、
海外がある程度強張っても、戻り売りだろう。
精糖は、大きな相場だっただけに、
天井を打つにしても、
もう一回先限で二百二十円台に買われるような、
非常に強く見せる場面があってもおかしくないが、
11月新ポで天井したと小生は思うのである。
輸入大豆は、香港がオープンして、
香港マーケットに刺激を受けたような塩梅で
東京も出来高が増大した。
東穀の理事長から、香港取引所の理事長に、
香港取引所に大豆市場を開設する事は
困るというふうな、
苦情みたいな手紙が出されて、
現地関係者は、理解に苦しんでいたが、
香港商取理事長は、香港市場の活況は、
東京市場に活況をもたらすだろう―と、
東穀のおとなげない手紙を、残念に思う―と、
たいして問題にしているようでもない。
そりゃあそうだろう、国が違うのである。
ましてむこうは英国式の、自由な考え方である。
東穀にとっては切実な問題であっても、
お国が違うのだから、
文句をつけるなら外務省を通し外交ルートで
東穀の意志を表示すればよかった。
まあそれだけ〝黒船来たる〟の狼狽ぶり
と受けとられても仕方がない。
東穀あたりは、
まだ危機感のようなものを感じているが、
商取業界全般は香港商品取引所の事を、
深く考えられる力がない。
いずれわが商取界は、開国論や攘夷論、
佐幕、倒幕両派の激突が激しくなるだろう。
商品界の国際化のためには
一度は経験しなければならない〝陣痛〟である。
●編集部註
平成の御代から、
この40年近く前の記事を読んで
思う事はただ1つ。
この業界に坂本龍馬はいなかった
という事である。
小栗上野介がいなかった、
と表現するべきであろうか。
代わりに
鳥居耀蔵や井伊直弼のような人物は沢山おり、
桜田門外の変が起きなかった
と考えると判りやすい。
「行人にかかはりうすき野菊かな」 立子 (2017.11.10)
昭和の風林史(昭和五四年十一月六日掲載分)
香海商取蘇生す 先物取引の夜明け
日本の商取界が
好むと好まざるとにかかわらず
香港商品取引所は先物取引の夜明けを迎えた。
「行人にかかはりうすき野菊かな 立子」
>>続きを読む
「鹿小屋の火にさし向くや庵の窓」 丈草 (2017.11.09)
昭和の風林史(昭和五四年十一月二日掲載分)
激動期時代の最高のゲームだが
商品相場の投機は、不確実性の時代の、
最も高度なゲームである。
現代社会に適しているのだが。
「鹿小屋の火にさし向くや庵の窓 丈草」
>>続きを読む
「猿酒や深山紅葉の頬のほてり」 袖子 (2017.11.08)
昭和の風林史(昭和五四年十一月一日掲載分)
閑な事ぐらい 別条ないのである
相場が少々閑なぐらいで
泣きごとを言っているようでは心もとない。
静あれば必らず動あり。
「猿酒や深山紅葉の頬のほてり 袖子」
商品取引所が再開されて十年くらいのあいだは、
市場にもよるが、相場が動かず、
商いも実に細々の時期があったが、
それでも仲買人(現在の取引員)は
経営に信念を持っていた。
当時は、大衆店の事を場違い筋と呼び、
当業者主導の市場だった。
場違い筋の主たる顧客は
戦前の三品相場や米相場を張った経験のある人や、
証券筋といわれる株式相場のマニアが
商品相場に手を出していた。
証券会社が
商品仲買の兼営が出来た時代だから、
証券会社の店頭に、
証券と商品の黒板が並んでいた。
営業といっても、
ズブの素人に相場を張らせることはなく、
むしろ素人が相場をしたいと言うと、
しないほうがよい―と止められたものだ。
当時は、外交員も営業所も出張所も
今みたいな難しい規制がなく、
実におおらかなものであった。
補償基金協会が発行している「きずな」10月号に、
武田商事の武田恒社長が随筆で
戦前のことを書かれているが、
われわれの知っている時代とは、
また別の、もっと自由な時代で、
それでいて事故も紛議もなかった。
相場が動かず、閑な市場の、
取引員の店頭を見ていると、
二十年前、二十五年前の閑散低迷を想い出すが、
当時と今では経費のかかりようが違う。
それにしても、わが業界は
飛ぶ鳥落すような黄金時代があった。
その頃、大儲けしたお金を、
なにかの形で取引員会社が
保存しておけばよかったと思う。
人材を養成するとか、
社会に通用する信用を確保するとか、
立派な商品会館を建てておくとか。
その頃は、幾らでも人は集まり、
お金は儲かると思っていたから、
随分思い切って使ったものだ。
しかし今となってみると、
せいぜい土地を買っていた分ぐらいだろうか、
現在値打ちが出ているのは。
まあこれも、
相場の世界で生きている人間だから、
太く短くて、ちょっとだけ、
いい思いをさせてもらったと、
あきらめればよいが、
商取業界の今後を
背負っていく人たちにとって、
先達の残してくれたものは
重たい十字架だけというのでは、
余りにも気の毒だ。
美田は残さずとも、
将来に展望を持てる業界にしておくのが、
われわれの時代における責任ではないか
と思うのである。
相場が少々閑なぐらい、たいした事ではない。
●編集部註
後悔、先に立たず―。
面白いのは、
平成に入っても
同じようなコメントがあったという事。
途中、何度か儲かった時期があっただろうに…。
ただ一番必要なのは、
リスクをとる事、
儲ける事が悪であるような社会の風潮を
払拭する作業であったかも知れない。
「コスモスや一つ餌に寄る鶏と鳩」 雪女 (2017.11.07)
昭和の風林史(昭和五四年十月三一日掲載分)
依然強弱なし 売り場を待つだけ
小豆のお山を低く見るしかない。
戻るのを待って売る。
輸大相場も円安などで高いところを売る。
「コスモスや一つ餌に寄る鶏と鳩 雪女」
11月の声を聞くと、
誰しも、うかうかしておれないぞ―と、
年末の段取りを考える。
事業経営者は
資金繰りの事やボーナス資金に頭がいたくなる。
>>続きを読む