昭和の風林史(昭和五七年六月十一日掲載分)
武士は食わねど玉受けん
相場に疲れが出ている。
山雨まさに来たらん。
小便一町糞八町。小豆の崩れ三千丁。
今年の北海道は
〝エリモ小豆〟という新品種が
七割ぐらいを占めるのでないかと。
この〝エリモ小豆〟は収穫期が非常に速い。
ということは早霜被害が、まず心配ないこと。
もう一ツはイールド(反収)が高い。
反当たり四俵などともいわれている。
北海道は、きわめて順調な気象に恵まれ、
始めよければあとよし。
早くも豊作という予想が出ている。
このような時に、
天候思惑の大量買いポジションは
リスクが大き過ぎる。
更に市場管理が厳しくなるおり、
大勢、大局の流れに逆らう腕力相場は
自らを窮地に追い込むだろう。
業界は『六本木筋の買い玉は
自粛要請もあって受けない』機運。
各社ともお腹は減っているけれど、
武士は食わねど―という姿勢を採っている。
場ぐせとしては大引け高い。
これは買い方が場勘定を考えて煽るから、
この大引けを売ればよい。
朝は安い。朝から気温上昇で売られる。
だから大引け売りの翌朝、
利食いが目先師のパターン。
そのうち地すべりする。
誰かがいっていた。
買い屋に今月も受けさせたらよい―と。
千枚はある。
先月受けたうちの東北産に、
かなり悪い品物があった。
値引きはするものの
受け方の目減りも大きく、
金利、倉敷の時計の針も
秒を刻んで肩に食い込む。
先限は千円棒を入れた。
寸退尺進ではなく尺軟寸硬の値はこび。
ヒネ限月の割高感が、いずれ暴落を呼ぶ。
まさに軟風競うて堂に満ち山雨来たらんと欲す。
無理した相場のとがめは大きいとしたものだ。
●編集部註
襟裳の春は何もない春です―。
当時隆盛を誇ったフォークソングの
旗手であった吉田拓郎が曲を書き、
岡本おさみが詩を書いた「襟裳岬」が
大ヒットしたのが1974年。
そこから8年経って小豆相場では
〝エリモ小豆〟の話題が
業界紙の話題に上っている。
筆致は、どことなく冷めている。
札束の殴り合いによって、
本来なら社会貢献の場であった市場の
メカニズムが崩された事への
静かな怒りも感じる。
悪貨は良貨を駆逐する、
とはけだし名言である。
古今東西、業界を問わず、
どの世界でも、目先しか見えず、
自己中心的かつ強欲にして狡猾な馬鹿が
システムを崩す。
平成も残り僅か。
新聞を読むと日本の卸売制度を
変える動きがあるという。
種子法も変えられた。
労働制度も変わる。
現在、崩壊真っ只中である。
昭和の風林史(昭和五七年六月十日掲載分)
五年前の今時分パニック
あれは五年前。
無理した相場が
『六月崩し見ようの事』で
パニックになった。
強力買い仕手の介在しない小豆なら、
今時分は増反、順気で
大下げしているところだ。
北海道現物市況も定期先限も
仕手に関係ないところで
値下がりしているし
小豆の先行相場である大手亡豆が、
やはり下げている。
罫線では
大引け止め足を引いている人は判るが
〔上段の天井〕三山が
二月9日、23日、四月1日。
現在は〔中段の天井〕三山ができた。
五月10日、19日、六月3日の頭がそれだ。
この〔中段のモミ〕が、
いかにも一番、二番、三番、四番と
底型に見えるところが、
この相場の曲者で、
仕手による安値買い支えによるもの。
これは相場、自然の流れといえない。
節足(大阪)先限引き継ぎは
三千二百七十円から売りになって、
一番早いシグナルを出していた。
東西取り組み合計は七万五千枚台。
五月4日の六万二百枚から
一万五千枚がふえたわけだ。
これからは規制と自粛要請で、
ほどけていくことになろう。
六本木筋は、あの店、この店と
流浪の旅に出たような玉の出し具合い。
『それでも私は買う』と、
大阪にも出てくるようだ。
昔、泣く子と地頭には勝てんといった。
いかな六本木筋といえど
産地のお天気には勝てないのだが。
今までは無理が通れば道理が引っ込む。
安値売らず戻り売れ―に徹してきたが、
相場は、とみに疲労の色が濃い。
農水省上層部もⅠQ物資買い占めや、
異常取り組みに対して
動きがあわただしくなった。
それはそれとして、相場は相場に聞け。
トレンドも下げの切り込みが
鋭角帯に入っている。
流れというものは、
どうしようもないもので、
堰止めていたものが決壊すると、
あとはなだれ山津波。
無理した相場の怖さは五年前に見ている。
●編集部註
5年前、1977年の小豆相場は
売り方天国/買い方地獄の1年。
この年に「普通の女の子に戻りたい」と
解散を発表したキャンディーズのように、
普通の生活に戻りたいと
嘆く買い方は幾万といたかと思う。
相場は76年12月から8週間上昇して以降、
1979年の大発会まで、
途中数週間の反発局面は
数回あった以外は軒並み下降相場であった。
77年2月3日に東京市場で
3万6500円であった相場は、
同年12月6日には
1万8360円になっていた。
つまり、10か月で半額である。
これが証拠金取引ならどうなるかは想像がつこう。
昭和の風林史(昭和五七年六月九日掲載分)
穀取は決然たる姿勢示せ
関係穀取は市場機能維持のため
決然たる姿勢が望まれる。
事態は深刻である。
今の小豆相場が異常でないと
思っている人がいるとすれば、
その人の神経が異常なので
異常神経の持ち主に
常識論を説いても
幻覚症状がきつくなるばかりで怖い。
産地の天候が非常によい。
産地相場は新甫から千円下げている。
これが正常な相場の姿である。
消費地在庫量は増大の一途なのに
逆ザヤは変だ。
規制はこれで第二次になる。
東穀、大穀が会員懇談会形式で
市場の異常事態に対処していることは、
とりもなおさず
普通でないことを物語るが、
仕手機関店は買い本尊に
この事を了解してもらう力がないのか、
それとも死なばもろともヤマト魂。
前進あるのみ特攻万歳攻撃、
あとは野となれ山となれなのか。
取引員機関店は、
経営の責任と市場遵守の責任がある。
これを放置すれば、
すでに商取業界の一員とはいえない。
玉がここまでふくらんだのでは―
というのは無責任ないいのがれだ。
玉がふくらんだら、
どうなるかは、
誰よりもよく判っているのが
仕手機関店だ。
天候勝負というが、
ポーカーゲームではない。
取引所という公共機関における
投機思惑には
戦い破れた時の責任をも
考えておくものだ。
天候はよい。
相場は
腕力でねじ伏せられているから
機能しない。
だから役所も取引所も業界も
異常だと騒ぐのである。
関係取引所は市場を
暴力的買い方仕手から守る責任がある。
すでに各市場間の
価格平準機能が破壊されている。
取引所の決然たる姿勢が望まれる。
●編集部注
わかっちゃあいるけどやめられない―。
と、ハナ肇とクレージーキャッツ
「スーダラ節」を発表したのが
1961年8月。
この記事が世に出ている時点で
実に20年以上が経過している。
しなかったのと出来なかったは
似て非なるもの。
晩年の風林火山は
日本の商品先物取引の
運営方法について批判を
繰り返していた。
この頃から既に批判精神は健在である。
ここで誤解して欲しくないのは
「批判」と「悪口」は
全く違うという事。
Aを批判する時は、
必ずAという存在を
完全に理解した上で
「こうすればいい」
「これがないのはおかしい」
「こうじゃないからダメなんだ」
とならなければいけない。
風林火山の批判は、
批判のための批判ではなかった。
かくあるべき
というビジョンがあった。
人は耳の痛いところを
突かれると弱い。
大人物だと取り入れるが、
小物だと退けてしまう。
昭和の風林史(昭和五七年六月八日掲載分)
ただただあきれるばかり
相場がコワレている。
それも相場といえばそれまでだが、
こんな相場見たことない。
小豆の買い方は場勘よりも
テコ入れ買いのほうが
資金的に効率がよい。
東穀の期近増証規制も
『まあこの程度なら』と買い方は安堵。
東穀規制の本質的目的と精神を
甘く見てはいかんと思う。
東穀は打つ手がないじゃないか―
と軽視していると、
あとから買い方しびれてくる。
それにしても、こんな相場見たことない。
なんと申しましょうか、
お金の力と小豆市場の狭さというか。
大量現受け、大量買い建て。
そしてこの逆ザヤ。
この過剰投機現象に
対策できないという穀取業界も
自らを考え直さねばならない。
市場管理等の規制は
ガンジがらめにあるわけだが、
その精神を踏みにじられては、
なすすべがない。
当然、一般大衆は市場から離れる。
現物筋は物の売れない時の逆ザヤは
結構なことで
売りつなぎ、そして渡す。
しかし市場間の価格が平準化しない事。
現物が偏在して
円滑な流通を阻害している事。
果して今の相場が公正価格の表示なのか。
取引所機能の問題が発生してくる。
買い方は、買わねば潰されるから
自衛のためにも防戦するのだ―
という考えだし方針だが、
自ら深みにはまって退路がない。
相場は、かなり疲れが出てきた。
本当はこれが一番怖いのである。
相場は人為の及ばざるもの。
かのハントの銀買い占めにしても
結末は相場に勝てなかった。
沢山の人から電話がかかってくる。
ポジショントークではなく
市場の先行きを心配する。
また、人気離散を憂慮する。
各市場バラバラの値。
そして、ひどい逆ザヤ。
相場がコワレた感じがするのは
筆者だけではあるまい。
困ったことである。
●編集部註
世の中は、
本音と建前で出来ている。
昨今、ついつい本音を是とし、
建前を非とするを良しと
しがちな風潮があるが、
一概には言えず、
物事はそう単純ではない。
本音はどうであれ、
建前論を前に置かないと
進まない事もある。
商品先物市場の〝平準化〟などは
その代表例といえよう。
物価を安定させるために投機を使う、
という建前が崩壊すると、
単なる伝介賭博になりかねない。
平準化機能が
上手く働かないのであれば、
存在する大義名分がなくなり、
存在価値自体もなくなってしまうのだ。