昭和の風林史(昭和五七年二月十二日掲載分)
まだまだはもうもうなり
実勢も一種の仮需である。
消費は現実に停滞している。
どこかで目が醒める時がくる。
小豆相場は引き継ぎ線で三千円上げて、
千円押して、
そこからまた三千円上げた。
だからこれで二段上げ完了で、
千円ないし千五百円押して
三段上げに持ち込むだろう
という見方がある。
ともあれ先限六千円は応分の値である。
取引員自己玉の買いは
四日をピークにして急減している。
煎れる人は煎れた。
九日夕方は、
売って頑張っている読者から、
多数の電話があった。
気がもう持てないギリギリの精神状態
であることが判る。
このような時は転換が近い。
これは過去の経験だから―と。
ここまで辛抱したのなら、
もうひとふんばり。
胸突き八丁一番苦しいところだが、
相場が相場を壊しはじめる―と。
なにも弱気に転換せんでもよいのに
わざわざ曲がりに行ったみたいだった。
新年号にも
春相場の大局六千五百円をマークし、
雑誌(商品先物市場)も、
コモディティオピニオン誌にも
罫線トレンドまで記入して、
六千五百円に印をつけて強気のはずが、
毎日書く原稿ともなると、
ここから一番おいしいところの急所で
転換したのだから、なんともいえない。
相場の難しさであり、
未熟さであり、馬鹿馬鹿しさである。
曲がった以上は曲がりかたがある。
新聞は曲がっている人たちが真剣に読む。
それは気やすめであり、
その日一日のワラ一本であるかもしれない。
そのためにも、
あやふやに曲がってはいけない。
曲がる以上は徹底して曲がることである。
その苦痛から
逃れようとしてはいけないと思う。
もうはまだかもしれないが、
まだは断じてもうである。
●編集部註
ビギナーズラックというが、
これは、必ずしも初心者が幸運に恵まれている、
という事を意味するものではない。
恐らく、運はあるにはあるのだろう。
それは恐らく、怖さを知らない故に
素直に相場と対峙する事が
運を呼び込むという解釈が出来る。
相場は、知れば知るほど行
動する事を躊躇する。
知ってしまったが故に、
ノイズに悩ませてしまう。
テクニカル的に
王道ともいえる買いシグナルが出ていても、
これと矛盾するファンダメンタル要因
というノイズに悩まされて、
結局は動けなかったという経験を
した事はないだろうか。
筆者はある。
ファンダメンタルズなんぞ
何の役にも立たない、
と言い切って
テクニカル一本で乗り切っていく事は
可能だ。
恐らく、その逆もまた真なりといえる。
そういう相場師が筆者の周りには沢山いる。
ただ、最終的には
トライ&エラ ーの繰り返しなのである。