昭和の風林史(昭和四九年二月七日掲載分)
賢明なる読者は、
ぼつぼつ相場の転換が近いという現象を
随所に感じていることであろう。
「白日の閑けさ覗く余寒かな 水巴」
相場の強弱が、どうしても書けない時がある。
一寸先も判らない時である。
判らぬ時は休め―という。
相場をしている人なら休む事ができる。
相場記事で生計をたてている相場記者は、
判る時も判らん時も休むわけにはいかない。
だから書けば、さらに深味にはまり込む。
一度、どうにもならないので
一行も原稿を書かずに
この欄を白紙のまま出したことがある。
しかし、あれは二度も三度もやったらあかん。
一度だけは仕方がない。
東京証券取引所の筆者の友人は、
白紙の紙面を見て『実に懐しい』と
感激して電話してきた。
なにが懐しいかといえば
米騒動や二・二六事件当時の新聞を思い出した―と。
筆者のは軍部の弾圧による白紙ではない。
進むも退くも、
どうにもならぬ〝かなしばり〟の進退
ここに谷(きわ)まれりである。
いままた、そういうような状態に、
だんだん近づいている事が自分で判る。
『風林は曲がっている時の記事が最もよい』などという。
あるいは『相場の事を書かないで、
絵空ごとばかり書いて気楽なものだ』とも言う。
隣家の不幸はふぐの味。さぞ面白かろうよ
―などとは言わない。
当たり曲がりは時の運であり、
勝ち負けは兵家の常である事を承知しているからである。
絵空ごとばかり書きよって―というのには、
察したまえ休む事の出来ない強弱記者を―と言う。
気が沈み、絶望的状態になった時、
人は寡黙になる、底抜け陽気になるかどちらかである。
新聞紙面は、陰気になったら売れない。
読者は常に陽気な記事を望むものである。
相場新聞が相場に大曲がりしたら、これは売れない。
その上に紙面が陰気になればどうなるかを
筆者は嫌というほどよく知っている。
サントリーウィスキー会社のテレビのコマーシャルで
碁打ちが〝孤独がどうのこうの〟―とぼやいている。
あれを見ると、なにぬかす―といつも思うのであるが、
孤独がどうのこうのの強弱なしに、
やはり普段より飲むウィスキーの量が、
かなり多くなっている昨今である。
貧乏もつらいが、曲がるのはもっとつらい。
●編集部注
小豆相場の日足が
安値の孤島を作っている最中、
カリブ海に浮かぶグレナダがイギリスから独立した。
その後10年、この国は
東西両陣営の思惑に翻弄される道を歩く事になる。
【昭和四九年二月六日小豆七月限大阪一万四九三〇円・三〇円高/東京一四八七〇円・二七〇円高】