昭和の風林史 (昭和四六年十一月一日掲載分) (2013.11.19)
売る手はない 年内の大底構成
小豆は売り余地がない。
むしろ絶好の買い場である。
小豆商談の打ち切りが案外早そうだ。
「船あがるひとりひとりに秋の暮れ 白水郎」
週末が月末で大阪は雨が降ったものだから、
自動車は走ることができない。
相場のほうは、この期におよんでストップ安である。
交易会の第二回目の小豆商談が29日から始まり
30日もオファー期限のある商社が契約して、
およそ六千㌧出来たことを嫌気した。
価格は天津一七八ポンド。東北一七二ポンド。
唐山一七六ポンド。東北周辺一七〇ポンド。
積み期は三、四月積み。
予想していたより早い商談で、
中国側の売り姿勢の積極的なことから
定期市場はストップ安に売られた。
しかも会期中に第三回目の商談も
期待できそうだと商社筋は見ている。
買い方は〝毛さんもう堪忍〟という顔つきだ。
これで第一回が九千㌧。第二回が六千㌧。
合計一万六千㌧強の成約である。
このほか台湾、韓国産の小豆を含め、
しかも第三回の商談となれば、
相場にあたる影響は大きく、
買い方も強がりばかりも言っておれない。
大阪穀取も東穀に続いて
小豆の証拠金を十五万円に引き下げた。
業者は今までのような状態では営業が苦しい。
証拠金が馬鹿高いため、
小豆相場を思惑しようとする人が減ったからである。
中共小豆も入荷し、仕手的な動きも影を薄め、
相場も安くなれば危機感も消えてくる。
それで相場のほうだが、
新ポ登場の四月限は
四等品相場になって
これが全般の足を引っ張る可能性がないでもないが、
このあたりの水準で大きくもめば、
また新しく需給を根底とした相場観が台頭してくるであろう。
伝えるところでは中国は
品物が沢山あるから契約を急いでいるのではない。
あまり多くの日本の商社押しかけたので
繁雑をを避けて、売れる時に全部売ったのだ。
中国国内は国連加入ニクソン会談などで
政治も経済も非常に繁忙である。
従ってあるだけのものを事務的に売って、
あとはもう無しという小豆商談の打ち切りがあるだろうという。
また東北小豆は凶作だったと、
中国から帰国した人は見ていた。
●編集部注
この頃、毛さんも毛さんで大変だったのだ。
1959年に失政で事実上失脚した毛さんは、
1960年代の文化大革命を機に政敵を排除、
権力を奪回した。
ところがこの革命は、新たな権力闘争を生む。
林彪事件が起きたのはこの少し前。
当然、西側の人間は、まだこの事件の真相を知る由もない。
【昭和四六年十月三十日小豆三月限大阪一万七四〇〇円・七〇〇円安/東京一万七四二〇円七〇〇円安】