国つくりを決めた代表的5氏族
政府委員として続く
6000年前から続く、
すべてのイノチと溶け合う縄文精神に、
「文明化」が組みこまれ、
シュメール、アブラハム、
アッシリア、殷周革命、
へブライ人の2度の捕囚、
アレクサンダーのヘレニズム、
さらに、始皇帝・武帝・三国志時代。
鎌足が日本に来たのは642年。
北イスラエルの神官から
南ユダの神官(特に、パリサイ派)に
変わったのが643年。
伊勢神宮が整備され
持統天皇に擬して
アマテラスが設定された690年に
不比等による完成。
天皇の権威の固定化は、
首皇子(聖武)による、大仏建立でした。
私たちが、
日本民族のアイデンティティーを
誕生させるのは、8世紀に入って、
記紀が出来てから後です。
そして、 ホスロー1世紀の
息子である突厥のタルドウ(聖徳太子)が
日本列島に現れたときには、
ミトラ信仰(弥勒菩薩)が
徐々に広まっていたときでした。
結論、記紀が出来る前は、
日本列島には、
アマテラスを皇祖神とする「日本人」は
いなかった。
神祇をしていた伊部(忌部)たちが、
阿波(徳島)に流されて以後、
大和朝廷のときの権力者にとって、
都合の悪いものが、
いつも、流されるところになりました。
徳島の山間には、
イサク時代の伝統を持つものが、
紀元前から入り込み、
ヤコブの子孫たちが
関西でもめたときに阿波忌部が受け入れ、
部族の伝承を残していった中心に
忌部神社がありました。
それ以前は、3世紀の神武の東征、
さらに、応神、仁徳、タルドウなど、
いつも、瀬戸内海を進み、
淡路島は、戦略拠点でした。
古代出雲との関係で言えば、
瓊島(沼島)が、
もっとも重要でしょう。
2世紀後半には、
九州と古代出雲(関西)の
中間に位置する中国と四国に、
多くの部族が、交流し、
入り混じりました。
その関係を破ったのが、
公孫淵の倭国亡命です。
5つの代表的な家族が、
その後の国つくりを決めました。
その家系の長老たちが集まって、
以後、時々の政体を決めています。
国家存続に関わる基本事項を
話し合う人たちで、
便宜的に、日本の「奥の院」
と称しましょう、
国会議員による政策決定よりも、
さらに強い権限をもつ集団です。
マスメディアはおろか、
世論、産業界、学会、金融、
なにより、司法にまで、
大きな権限を密かに及ぼします。
官僚や、そのOBたちのことではありません。
この「奥の院」は、戦前、
中国大陸に軍事拡大してしまった日本の軍部を
引き下げるために、
やむなく、アメリカとの交戦、
そして敗戦の道を選び、
戦後は、日本国家存続と戦後復興のために
アメリカ(特に、スカル&ボーンズ)
とも共同歩調を選びました。
アメリカの世界戦略の中に、
日本国家としての名誉ある地位を考え、
日本人の社会活動や生産活動を
きちんと位置づけ、日本国内には、
その戦略の中で、安心して物つくりを
励めるように、「平和憲法」を与えました。
ここまでは、戦後の裏面史を調べれば、
誰もが知るところです。
それは、21世紀の現在でも続いていて、
政府委員と呼ばれています。
その長老たちは、
春日大社に祀られている、
タケミカヅチ、
フツヌシ、
ヒメカミ、
アメノコヤネの4柱と
吉野の玉置神社(あるいは、諏訪大社)に
祀られている「国譲り」前の、
ニギハヤヒの系列です。
戦後、アメリカと組んで日本を復興させたのは、
このなかでも、タケミカヅチ系でした。
ここは、同時に、明治維新でも、岩倉と語らって、
孝明天皇を失脚させています。
日本人は、自分の国ことをしらなすぎます。